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2014年9月26日 (金)

荒川放水路を歩く

荷風の「放水路」を二度目は地図で確認しながら読んだが、この辺の地理に弱く、なかなか頭に入ってこない。荷風は大正3年に千住大橋をわたって長堤を2里ほど歩いている。それからしばらく間があって、昭和6~7年頃に足繁く荒川放水路を訪れ、11年に「放水路」を書いた。

「放水路の眺望が限りなくわたくしを喜ばせるのは、蘆荻(ろてき)と雑草と空との外、何物をも見ぬことである。殆ど人に遭わぬことである。…(略)…ここに杖を曳く時、わたくしは見る見る薄く消えて行く自分の影を見、一歩一歩風に吹き消される自分の跫音を聞くばかり。いかにも世の中から捨てられた成れの果てだというような心持になる。…(略)…自分から造出する果敢(はか)ない空想に身を打沈めたいためである。平生胸底に往来している感想に能(よ)く調和する風景を求めて、瞬間の慰藉にしたいためである。その何が故に、また何がためであるかは、問詰められても答えたくない。唯おりおり寂莫を追求して止まない一種の慾情を禁じ得ないのだというより外はない。」

 

川本三郎氏は『荷風好日』の「荒川放水路から荷風をしのぶ」のなかで、「荷風の文章を読むと、読者はたいていそこに描かれた風景を見に出かけたくなってしまうものなのだ。」と書くが、ほんとにそう。その川本氏の文章がまた荷風の風景を見たい気持ちを倍加させる。

そして同氏は「風景というものは人に見られることによってはじめて「風景」としての意味をもつ。見る人の視線、価値観によって「風景」として立ち上がる。それまでは、ただの川・川原であった風景が荷風という文人によって眺められ、言語化されることによって、はじめて価値のあるものになる。その意味で、荷風は荒川放水路という風景の発見者だった。」と書く。

 

浅草の木馬亭で「浅草21世紀」の芝居を観る日に、ちょっと足を延ばしてみようと決めた。京成電車の八広で下車、そこから荒川沿いを30分ほどさかのぼり堀切まで歩き、東武電車で浅草に戻ってきた。歩きはじめてすぐ、昼前の日照りの荒川は荷風の荒川ではなかったと後悔したが、初回は土地慣れのつもりで歩くことにした。堤から右手に幅広の川を眺めながら歩く自分の姿を想像していたが、実際は川幅は広いけど、その半分の河川敷は野球場やサッカー場などの運動広場に整備されていて川の気配は遠い。対岸には中央高速環状線が2階建てに見える。堤から下に降り、川面にいちばん近いところを歩く。柵と川面のあいだに背丈ほどに雑草木が生い茂っていて、そのところどころにけもの道らしき道。その先に目をやると決まってブルーテントが見える。木に洗濯物が干してあったりして生活がうかがえる。上野公園や隅田川の堤から追い立てられてきた人たちなのだろうか。

 

川本氏が放水路を歩き始めたのは1980年ごろという。上記の「荒川放水路から荷風をしのぶ」を書いたのが2000年。そこに書かれた風景さえ、もはや望みえないものになりつつあるが、荷風の見た風景、風や匂いを少しでも感じとりたい、と、しばらくは追っかけるつもり。1410915163326_800x568

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