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2013年7月

2013年7月26日 (金)

ベネチアビエンナーレ2013

アドリアーノとロセッラ夫妻が旅先のベネチアからたくさんの写真を送ってくれました。いまベネチアではベネチアビエンナーレが開かれています(6月~11月)。現代美術の国際美術展として有名ですが、アートと建築の展覧が隔年で開かれ、今年はアートの年。そして7月はジュデッカ島にあるレデントーレ教会のお祭もあり、運河に花火が打ち上げられたとのことです。
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映画「クロワッサンで朝食を」を観る

シネスイッチ銀座に行ったら、チケット売り場前に人だかりができていた。ほとんどが私のようなオバサンばかり。「おひとり様女性必見」の前宣伝が効いているらしい。老いて気難しく我がままに生きる女性。その女性の頑なな心を開いていく雇われ人の女性。ふたりの心の交流。主演のジャンヌ・モローは85歳というが、老いの美醜をさらけだして圧倒的な存在感を見せてくれる。低い声も迫力満点。ほんとに名女優の貫録。会話もシニカルなのだけれど機知に富んでいて、とにかくしゃれている。男と女のことを話させたらさすがフランス人。伝統を感じました。ジャンヌ・モローといえば口をへの字に曲げた顔つきの印象が強いのですが、今回は彼女の手に注目。意外に大きく無骨なのに気づいて、へえーっ。私自身がグローブのような手を常々気にしているせいかもしれません。

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消えたコトン母さん

Cimg0408_470x640「自分の死期がわかっているのね」「まったくご立派。猫中の猫よ」。ミックとホースケの母親、そして外猫クロの母でもあるコトンが姿を消して半月になる。コトンは先に死んだトントさんと白黒の柄が似ていて小振りだったので、いつのまにかコトンの名が定着した。コトンは生まれてからある程度育つまでまったく人間との接触がなかったのだろう、警戒心が極端に強く、決して触らせない。近づくとシャーと威嚇する。それでも朝晩ご飯を食べにくるし、玄関脇のハウスで寝る。それがこの6月頃から朝は姿を見せず、暗くなってからやってきて1日1回の食事になった。食の細くなっているところへ35℃の猛暑が続いてついにダウンしたのではないかと想像している。10歳くらいになっていたろうか。でも猫生を立派に全うしたのだから探したりはしない。きっと永遠の安楽地をみつけたと思っている。さようならコトン。子どもたちをありがとう。

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2013年7月24日 (水)

谷文晁展を観る

Img001_569x800江戸後期の絵師。今年が生誕250周年という。山水、花鳥、人物、仏画と何でもこなす技量のひとだけに、どの絵をみてもさすがに上手いと感心するのだが、個性が希薄というか絵としての魅力はイマイチの印象を受ける。松平定信、木村兼葭堂、大田南畝、酒井抱一など当時の一流人と交流があり、単に絵描きというよりも教養人であり懐の大きな人だったよう。渡辺崋山、田能村竹田などの弟子も育てた。文晁は旅が好きで、日本各地をくまなく歩いて、景色を描いている。富士山や松島、東京なら隅田川や戸山山荘などを眺めていると、しばし江戸に遊んだ気分になる。私は古今東西を問わず肖像画というものにいささか関心があるのだが、文晁は「肖像画はことごとく似せてはいけない。似せると命を損なうおそれがある」と語ったという話が添えてあって、面白かった。展示は前期と後期で作品の入れ替えがかなりあるらしい。

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2013年7月23日 (火)

アオダモの実

ハルさんから赤い実のついたアオダモの写真葉書が届いた。「いまアオダモの実が赤くなってるよ」と植物学のエツコ先生が教えてくれたという。で、6月に見たあのアオダモの木に会いに行ったら、実がついていない。ええっ。調べたら雄の木と雌の木があって、花は両方とも咲くけど、実がなるのは雌の木だけらしい。そして大沼湖畔を走って、別のところで赤い実を見つけたよ―と、知らせてくれたのでした。910月になるとさらに赤味が増して美しいと。

因みにアオダモのアオは樹皮を水に入れると青くなり、アイヌの人は入墨に用いたそうです。以上、ハルさんからのアオダモ情報でした。Img001_800x539


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2013年7月20日 (土)

映画「吾輩は猫である」を観る

Cimg1153_800x600「夏目漱石の美術世界」展に刺激を受けて漱石の作品をいくつか読み返している。面白い。文章と読む呼吸がピタリと合って、その名調子を声を出して読みたくなる。出さなくても、声が聞こえてくる気がする。漱石世界に浸っているところへ映画「吾輩は猫である」の上映をキャッチした。これは見逃してはなるまじ、と新文芸坐に。エレベーターに乗ったら帽子を目深にかぶった男性が連れの人と同乗してきた。もしや仲代達矢さんでは、と思ったら、やはり。何も知らずに行ったのだが、ちょうど仲代達矢映画祭だったのだ。当日は「鬼龍院花子の生涯」と「…猫」の2本立てで両作品の主演が仲代さん。そして上映後に仲代さんと黒澤組の野上照代さんのトークショーがあるとの館内アナウンスがあった。道理で今日は混んでいるはず。「…猫」しか頭になかったが、思わぬオマケ付きとなった。

ところで肝心の「…猫」だが、1975年、市川崑監督作品。軽妙さは出ていたが、如何せん猫は演技をしないから、猫専門家? の目で見ると、猫のしぐさと状況の不一致が大いに気になった。マタタビを使ったな、なんて判ったし。仕方がないか。人間は名優ぞろいだったが、細君役の波野久里子が気に入った。それにしてもヘビースモーカーの市川崑だからではないだろうが、とにかく煙草を吸う画面の多いのには参った。昔の映画はほんとに煙草を吸う場面が多いですね。

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2013年7月19日 (金)

セレンディピティ

7月初旬に開かれた東京国際ブックフェアで、外山滋比古氏の講演を聴いた。そのタイトルが「思考力を鍛える本の読み方 乱読のセレンディピティ」。セレンディピティという言葉、映画のタイトルにあったらしい。アメリカのカフェにもこの名の店があるらしい。一時流行語にもなったらしいが、私は知らなかった。ウィキペディアで調べると、「何かを探している時に、探しているものではなく、別の価値のあるものを見つける能力、才能を指す言葉。何かを発見したという「現象」ではなく、何かを発見する「能力」を指す」とある。たとえばニュートンの万有引力はりんごが木から落ちるのをみて閃いたというように。

外山氏は乱読によって、自分に遠い本と思っている本に自分を発見することがある。その確率が高いと。そして自身のセレンディピティとして2つの例を挙げた。1つは菊池寛のエピソード。彼は親しい人に自著を贈呈しないという。これを読んで、外山氏はハタと感じ入った。著者と読者は離れている必要がある。できるだけ遠い人に読んでもらう。以来、外山氏も人にケチと言われようと身近な人に本を贈呈しないできた。2つ目はものを考えるための読書。自分には遠いジャンルと思っていた物理学の寺田寅彦の「科学者とあたま」を読んで、知ることと考える事の違いに目覚めたという。

では私にもセレンディピティはあったろうかと考えてみたが、思い当たらない。知識を詰め込むことはしても考えることをしていない証拠か。よく運も才能のうちというが、凡庸な人間には運も回ってこないということになる。

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2013年7月 3日 (水)

集団登校

数日前の午後、本を読んでいたら上空がやたらうるさい。そのうるささがあまりにしつこいのでベランダに出て空を見上げたら3機のヘリコプターが旋回していた。何事かと思っていると、事件らしい、テレビで中継しているよと姉。近くの小学校から下校しようとした生徒数人が男に果物ナイフで切りつけられたという。テレビ画面は小学校を上空から映していた。その取材ヘリだった。この学校前の道は私の散歩コース、買い物コースだが、テレビ画面で見る現場と実際はこうも違うものかという印象。広々ときれいに映っている。カメラは事実を映すものでないことがよくわかった。

我が家の前は私道だが、子どもたちの通学路になっている。毎朝、洗濯ものを干す頃に集団登校の子どもたちが何組か通り過ぎる。あるグループには父兄の付き添いもいて、楽しそうな会話が聞こえてくる。少子化というけれど、子どもはたくさんいるじゃないかと感心している。

事件があってから、その集団登校がより結束を固めたようで、今日は10人ほどの子供たちに4人の母親が引率していた。静かな住宅地で起きた事件。いつどこでも起こり得ることと思うと怖い。子を持つ親の心配は絶えない。それにしてもあのヘリ騒動は何だ。もっと無駄のない報道体制はないものかとも思ったのだった。

毎朝窓辺で子どもたちを見送るのがトントさんの仕事だったけど、ミックがちゃんとあとを継いで、毎朝窓辺に立っている。ときたま、あっ、猫だ、と子どもに見つかって、怯んだりしているが。

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2013年7月 1日 (月)

パンを買う夢

他人の観た夢の話ほど面白くないものはないけれど、私としては久しぶりに映像のくっきりとしたストーリー性のある夢をみたので、記録しておくことにする。

若い十代の男の子たちが5、6人家の中にいる。大きなお皿にパンを切って出したら、みんなの手が伸びてたちまちなくなった。パンを買いに行かなくちゃ。六本木あたりらしい。いろんなものを売っている店のレジの近くに袋詰めの食パンがあった。これでいいか、と買おうとしたら、それは腐っているから売れないとレジの女性が言う。そして美味しいパン屋を知っているから連れてってあげるという。彼女の後について、とても狭い暗い路地へと入って行く。とてもパン屋とは思えない間口の狭い家の呼び鈴を押すとそこの主人が現れ、今日はパンをつくっていない、この先の知り合いを紹介するという。また彼女についていく。やはり入り口は暗くて狭いのに、中に入ってビックリ。明るく広々していて、白いユニホームを着た人たちがたくさん働いている。手前のショーケースのなかにたくさんのパンが並んでいる。パンをいくつか買うことにしたけど、高いのかなとちょっと心配。でも普通の値段で安心する。そのパンを抱えて帰ろうと狭い路地から広い道に出ると、反対側が急に田舎の風景になっていて、木造の古びた家が並んでいる。ステキ。緑も豊か。黄色い花が咲いている。家はその向こうにあると分っている。いつのまにか店の女性とは違う、友達らしき二人の女性が一緒。二人に、どうする、家まで来ると尋ねると、せっかくここまで来たのだからお邪魔する、と付いてくる。家はもうすぐ。ここで目が覚めた。目覚めはとてもよかった。

 

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